「広告批評」の橋本治が相変わらず素晴らしい件について


酔っ払った頭で書くラブレターほど、朝起きて恥ずかしいものはない。
だから酔っ払っている頭のうちに、書ききってしまうのだ。



私が唯一と言っていい定期購読雑誌、それが「広告批評」。
冒頭に掲載されている橋本治の「ああでもなくこうでもなく」という連載が大好きなのだが、2009年1月号のコラムがまた良い。


あーそうよそうなのよ、という、背中のかゆいところを掻いてくれる感じ。



橋本はこう言う。

『(1980年後半のバブル経済は)「長期の好景気による豊かさを実現させてしまった日本に訪れた、最初の新しい段階の兆候』だった

と。そしてこう続ける。

「豊かさが長く続くと、必要が満杯状態になっているから、すぐに溢れる」ということになり、「豊かさ=必要なものが満杯になっているという状態の中に注ぎ足されて“景気を刺激する”と言われるようなものは、不必要なものだけである」という
ことになる。根本が「不必要なもの」で、「必要なもの」は満杯になるから、「不必要なものへの集中」が起こって、そこはあっという間に「好景気」として膨れ上がって、すぐにはじける


「もうお腹いっぱいで食べれないよー」と言っているところに「おやつはどう?」「水飲んでないでオレンジジュースにしなさい。ね?」と言っているようなものか。別腹にも限度がある。



とどめはこれ。

リーマンショック以後の金融危機の状況は、分析をしても役に立たない――というか、意味がない。分析の結果が「だからこうだ」になって、「だったらこうすればいい」という方向を指し示さない。どうしてかというと、金融危機の状況は、分析しても「だからこうだったの」という過去しか指し示さないから。

いやほんと、おみそれしました。私がいま抱えている無力感のようなものは、まさにここにある。





これは昨日書こうと思っていたトピックスなのだけれど、私はこれまで6年間ずっとニュースを追いかけてきて、「なぜニュースが必要なのか、情報が必要なのか」と問い続けてきた。そして自分がなぜ情報を必要とするのかを考えたら、ひまつぶしとかもあるけれども、一番の答えはこれだった。



「自分のこれからの行動を決めるため」*1



だから、それを支援するようなフォームで、ニュースや情報を提供していくのが良いのだろうと思っていた。


でもこと、この金融危機だとか不景気だとかの話については、道筋が自分の中で定まらない。
仕事を始めた2003年のころはやっぱり景気が悪かったけど、「IT関連技術の進化が未来を切り開くんだ」というような、どこか無邪気なオプティミズムがあって、その波にいろんなメッセージや情報を載せることができたし、それができることが楽しかった。



けれど今回は、当時の方法論が自分の中で通用しない。




規模なのか、自分の力不足なのか。そう考えていたけれども、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。
そんなふわふわした、どこにもつかまる術を持たないまま激流に飲み込まれている、そんな感じがしている。



そして今は、流されながら全体の流れを見極めようとしている。
もう、世界のすべてを「大人」のせいにできるような年齢でもないから。
そういう意味では、この年齢でこの出来事を向かえた自分は、意外に面白いのかもしれないぞ。と自分を鼓舞して、また今週もがんばろー。

*1:ちなみに後で知ったことですが、「情報」の語源は「敵情報知」らしいですね。