ケータイ小説は現代の落語である、ようだ

地下鉄で無料配布されていた「中央公論Adagio」という雑誌の4月号で、落語の五代目志ん生さんの特集をしていた。
最近、落語にはまりつつある私はうきうきで読んでいたのだけど、そこに面白い一文を見つけたので、メモがてら書き記しておく。
志ん生さんの自伝、「amazon:なめくじ艦隊」からの引用だそうだ。

長い噺をしゃべるんで、講談とはちがうんですが、あくまで対話を主としてしゃべる。たとえば講談ですと、
「――路地に入って突きあたりに、あらい格子があります。こいつへ手をかけてガラガラッと開けて、足を中へ入れながら、『エ、ごめん下さいまし』と、奥から出てきたのは、年のころ四十五、六と見えますでっぷりとふとっていい男でありまして、『ああ、いらっしゃいまし』……」
というふうなのが講談なんです。これを人情噺ですと、
「オ、路地だな」――こうしをあけるかたちをして――「ごめん下せえまし」「だれだい、オー」……。
こんな工合なんですよ。つまり説明しないで。雰囲気でしゃべっていくのが人情噺なんですよ。

これを読んで真っ先に思ったのが、「それってケータイ小説じゃん」ということ。
会話と、主人公の思いやつぶやきが大半を占めるケータイ小説の形態が、なんだかよく似ているような気がした。


だらだら長いト書きはいらない。
視点と、会話と、そこで動いた感情があればいい。

それは刹那的でもあるけれども、理屈より感性を重んじる、完成よりも変化を重んじる、出来事よりもコミュニケーションを重んじる、そんな世界がある。

薄い板で仕切られた長屋にすし詰めで生活していた江戸の人たちと、ネットやケータイで24時間つながっている自分たちの生活は、実はよく似ているのかもしれないと思った。
ネットの町人文化が花開いているということなんですかね。


まぁついでにいえば、大体こういうのは天災や飢饉でその栄華が終わるので、地球温暖化の影響なんぞが気になるところ。みんなもっとお米を食べるといいと思うよ!(←政治家のこういう主張がよくわからんが、米は美味いから好きです)