ニコニコ超会議について書いてみる

いやー、ニコニコ超会議、よかった。
無事に終わって、皆さんに「ニコニコ」していただけたようで。


ご参加&ご来場いただいた方、生放送で見て頂いた方、
その他この企画の実現のためにご協力いただいたすべての方に感謝。


とにかく刺激の多いイベントだったので、
久々にブログなど書いてみる。
たぶんこの会社に入ってからニコニコについて書くのは初めてかも。
やっぱ、ぶっちゃけ精神的に書きにくいもんで。
(会社から何か言われたことはないんだけど)


ニコニコ動画を、スタートから3年半は社外から批評する立場で、半年はただのユーザーで、1年は中の人として見てきた人間の一感想として。
(※ちなみに当日の担当は招待者受付だったので、中の様子は休憩時間とかに見たくらいであることも付け加えておきます)

超会議は、ポジティブな空気が溢れてた。

休憩の合間に数十分見たくらいだけど、それでも充分ニコニコできるほど、
とにかく来場した皆さんが素敵。

めっちゃクオリティの高いコスプレーヤーさんたちがたくさんいて、
なんかとにかくnecomimi装着率が高くて、
踊ってみたブースでは100人規模の人が真剣に1つの踊りを踊っていて、
のど自慢ブースでは正直、そんなに歌がうまくない人に対しても観客が異常なほど盛り上がっていて、
有料ゲート入口の大きなディスプレイの前ではウェーブが起きて、生放送コメントが弾幕で埋め尽くされて。


参加する人たちが、他の人を楽しませようといろんな仕掛けをしてくれて、
周りの人はそれを素直に楽しんで褒めて盛り上がって、
さらにそれに乗ることで、本人も周りももっともっと盛り上がるっていう
ポジティブフィードバックが起きてたと思います。
初期のニコニコ動画の雰囲気が再現&体現されていたんじゃないかな。


何しろ初めてで何が起こるかも分からない、
しかも有料で幕張まで行かないといけないというハードルが、
良い意味でフィルターになった気がする。
みんな「おもてなしされるお客さん」ではなく、
「自分が参加するもの」として来ていただいて、
「せっかく来たんだから楽しまないと損だ!」という気持ちを
皆さんが持ってきていただいたことで、
結果的に、「ニコニコすることって良いよね!」っていう場が出来上がったと思います。


うまく言えないけど、自分と同じような価値観や好みを共有できる人が目の前にいて、それを囲む、違うけど同じな「みんな」がいて、そこが場になってる感じ。それは、ニコニコの原風景の1つかなーと思います。


まぁ何がいいたいかというと、やっぱりニコニコはユーザーの皆さんが最高、ということです。

超会議の意義を考えてみる。

超会議は、いろんなカテゴリをあえてごちゃ混ぜにするような場をつくることで
新しい出会いやコラボレーションが生まれてみたり、
単純に楽しかったり、リアルだったり、もちろん話題にもなったり。
いろんな良いことがあったと思います(赤字だけど)。


ただ、個人的に一番良かったのは、これだけ素晴らしいユーザーの皆さんに、
社員一人一人がようやく会えたこと。


サービス開始当初はユーザーの皆さんとほぼ同じ目線で、
同じ感覚でサービスを作り、運営していたけれども、
規模が拡大して、サービスの種類も関わる人数も増えて
いろんな意味で複雑化していく中で、
少しずつ、ユーザーさんと運営との距離が遠くなっていったように思う。
それがニコニコを取材してきた記者の立場としては当時すごくもどかしかったし、つまんなかった。


それが、ようやくだけどこういう機会が持てて、ほぼ全社員がユーザーさんと間近に触れあって、
自社のサービスを愛していただいていることを肌で感じることができて、
しかもありがたいことに成功と呼んでよいレベルに達することができた。
本当に、よかったなーと思う。


これを機にサービスの深みが一段も二段も増せたら、
それが今回のイベントの本当の成功だと思うのです。

そして、Zeroへ。

5月1日から、「ニコニコ動画:Zero」がスタートします。
サービス全体の総称は“ニコニコ動画”からniconico(ニコニコ)に。


多分、良いところもあれば、「そうじゃないんだよ」って言いたいところもあると思います。
そこはぜひ、激励も叱咤も含めて、運営にお知らせください。
耳が痛いことも多いし、全ての希望を叶えられる訳じゃないし、
すぐに実現できることばかりでもないし、
簡単に説明できることばかりでもないけど、


“皆さんにこれからも、もっと「ニコニコ」してもらえる場を作りたい”


その気持ちはきっと今、多くの社員が心から思っていることだから。

「隠せば言葉が濁る」

我が家は母親が朝日新聞、私が日経新聞、父親がサンケイスポーツを取っている。
多分日本でも上位数パーセントに入るんじゃないかと思うくらい、
新聞業界に貢献している家である。


よって毎週末に新聞整理をするのは私の仕事だったりする。


んでもって今日も新聞を片付けているときに、3/1の朝日新聞夕刊の連載
「声が聞こえる」が目に入った。
朝日新聞は正直、社説とか天声人語とかは目も当てられない感じだが、
人にフォーカスしたこういう連載は良いものが多い。


この日の記事は、歌人永田和宏さんと、その奥様の故・河野裕子さんを取り上げていた。
河野さんは2000年に乳がんが見つかる。その際に、病気を詠むべきか悩んだけれども、それも含めて歌を詠むべきであると決断する。そのときの言葉が、表題の言葉だ。


「隠せば言葉が濁る」、と。




言葉に仕えようとすればするほど、自分の「現在」が浮き彫りになる。
そして隠しておきたい心の機微こそが、人の心を打つ。


芸術なんてものはある種自分の人生と引き替えで、
つらい経験こそが「美味しく」なるから、本当に悪魔的だ。


でもきっと、言えないことが一つ一つ澱のように貯まって、
それが心を埋め尽くして、
がんじがらめになって、自分のことが見えなくなって、
他人の価値観で生きていくくらいなら、


すべてを失う気概で、自分の「現在」に素直になってもいいのかもしれない。

ザ・インタビューズが面白い


いや、面白いってのは若干誇張ですが。


いろんな人からいろんな質問が来て、ネタやマジレスを交えつつ回答するのはなかなか楽しいかも、という感じ。


その中でも、考えさせられるなーとか、ついでに語っちゃえ!という感じで酒の勢いで回答したのが以下の2問。


■CNET時代に一番苦労した取材はどのようなものでしたか? また、ネット媒体におけるジャーナリズムのあり方について、永井さんのご意見をお聞かせください。

■現在のライバル、ついでにかつてのライバルに対し、どのように思っていらっしゃるのでしょうか。そもそもライバルがいない、ということであれば、人生や仕事などで憧れの人について教えてください。


やっぱり仕事の話って何となく回答するほうも熱がこもるし、昔の話だからまぁいいかー、と思って言えることもあるし。


そんなわけで回答率が100%になったので、現在質問大募集中です。ぜひぜひこちらまで、お寄せ下さいませ↓↓
■nagaimichikoのインタビュー

ジブリ最新作「コクリコ坂から」、良かったです。

7/16(土)公開の新作「コクリコ坂から」の試写会に行ってきました。
http://kokurikozaka.jp/

いや、良かったです。とっても。

一大スペクタクルが起こるわけでもなく、大感動があるわけでもないのだけれど、それでも見終わった後にすごく「良い映画だなぁ」という印象が残る映画でした。


主人公の海(うみ)は高校生。父親を海で亡くしているけれども、強く前向きに生きている姿が、なんとなく今回の震災で家族を亡くされた方々にかぶってしまい、あんまり本筋と関係ないところで号泣。
話の筋自体は今回の震災よりも前にできているはずなんですが、海に大切なものを奪われ、それでも海とともに生き、海に大切なものを与えられている姿が、震災で押しつぶされてしまった心に、そっと希望を与えてくれるような、そんな気が勝手にしました。


テンポの早いストーリーと音楽が、映画に適度な明るさと軽さを与えていて、
押しつけがましくない、けれど傷ついた心にそっと寄り添って一緒に生きていってくれるような、そんな印象。


なんとなく今の時代は、ささやかで取るに足らないような小さなことをきちんと大切にすることこそが求められている気がしていて、
家族や友人を大切にするとか、きちんと食事を作るとか、家事をするとか、トイレを綺麗にするとか(笑)
そういった今の時代の空気感にとてもマッチした映画だと感じました。


ファンタジーも冒険もない映画なので、どこまで大ヒットするかはわからないけれども、周りの評判を聞いても「ジブリ作品の中でも好きな方!」という声が多く、ずっと愛される映画になるんじゃないかと思います。
手嶌葵さんの主題歌も、碧く広い海のイメージにぴったり。


夏の暑い時期に見てもらいたい、さわやかな映画です。

石巻にボランティアに行って来ました

4月16日、17日と石巻にボランティアに行ってきました。

結論:
・ボランティアはまだまだ足りない
義援金って、やっぱりすごく、すごく大事



15日の金曜日の朝に思い立って上司に「今日休みます!」とメール。石巻市災害ボランティアセンターに必要事項を確認した上で仙台のホテルと帰りの夜行バスを予約。飯田橋にある東京ボランティア・市民活動センターボランティア保険に加入して、ホームセンターや東急ハンズで長靴・厚手のゴム手袋・ヘルメット・ゴーグル・マスク(多層式)・ウエットティッシュ・雨カッパ(上下)を購入。17時前に新幹線に飛び乗って福島まで行き、「新幹線リレー号」という臨時列車を乗り継いで仙台へ。

仙台から石巻までは18日まで無料バスが出ていたので、日帰りで2日間通いました。

バスは3台、先着120名。ボランティアの人たちは女性が3〜4割くらいで20〜35歳くらいの人が中心。男性は25〜50歳くらいまでと年齢高めの人も多く参加されていました。4割くらいは県外の人だった印象です。


私が行ったのは、湊地区という海から約3キロ離れた場所。それでも、旧北上川津波がのぼってきて、あたりを襲ったようでした。特に古い家ほど崩れたりして、大きな被害になっているようです。




折れ曲がって中身がむきだしになった電柱。
運転席がぐちゃっとつぶれた自動車。
がれきの上に2階だけが形をとどめた家。


どれもテレビや新聞、ネットで見ていたけど、目の前にすると本当に言葉がなくて。



「入居者募集中」と書かれたアパートのガラスが割れて壁が崩れていたり、「新サービスはじめました」と書かれた美容院の中のパーマ機が泥に埋もれていたりするのを見ると、当たり前だけど、その瞬間まで普通に人が生きて、商売して、生活していたんだと実感しました。

送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011
送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011
送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011

私がボランティアに行ったお家は2軒ですが、どちらも70歳くらいのおじいちゃんおばあちゃんが2人で暮らしていて、1階は完全に冠水したけれども、2階に避難して何とか難を逃れたという方々。
本当に無事でよかったです。
とはいえ、普段の生活空間だった1階は天井まで津波が来たせいで、一面ヘドロまみれ。とても使えるような状態ではありません。

1軒めのお家は前日もボランティアが来たところだったので、私たちは押入れの布団や洋服をゴミに出し、床下の水を吸ったヘドロをかき出しました。
が、田舎の実家とかおばあちゃん家とかイメージしてもらうとわかると思うのだけど、とにかく布団や洋服が多い!そしてそれが全部泥水を吸って超重い!!衣装ケースを開けると、地震から1カ月以上たつのに、いまだに泥水が入ったまんま。それをみんなで担いでゴミ捨て場まで運んだり、泥を土嚢に詰めて運んだり。

送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011

2軒めのお家はボランティアが来るのは初めて、とのことで、何もかもが手つかずのまま。代々お醤油とお味噌を作って売っていた立派なお家です。
家の床は一面10cmくらいはヘドロがたまっていて、まず荷物を全部出した後に泥かきをするのですが、商品であったであろうお醤油やお味噌を入れる袋、お店の伝票などが次々と出てくる。台所の炊飯器やレンジ、お鍋や食器なども泥まみれ。さらに奥の部屋は仏間になっていて、ご先祖様の写真とか、何もかも流されてしまったお仏壇とかあって。「ご先祖様のお位牌がみつからないのでもし見つけてもらえれば……」と言われたのですが、見つけることができず、悔しい思いもしました。
注意深く作業したつもりだったけれども、もしかしてヘドロと一緒にすくって捨ててしまったのではないかと、正直まだ胸につかえています。

送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011

水道も電気も通っていないので、避難所になっている近所の小学校に毎日ご飯や水を取りに行くんだそうです。地盤沈下のため1日2回、満潮時には地下から水があふれて道路が冠水します。

送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011

作業は1日4時間、6人チームでやるのだけれど、とても1日では終わらなくて、次の日の人向けに引き継ぎノートを書いて終了。家の半分も掃除できなかったように思います。


「ボランティアが足りない」って、こういうことかと思いました。たぶんどちらのご家庭もまだ、泥にまみれたお家の2階で、老夫婦だけではどうすることもできずに、誰かが来てくれるのをただずっと、待ってる。そしてそういうお家がこの地区だけでもたくさんあって、きっと被災地全体ではものすごい量になるんだと思います。

だから1人でも多くボランティアに参加してくれること、そしてそのためにも参加しやすい環境が整うことを祈らずにはいられません。



あと、正直義援金もかなり集まっているみたいだし、分配には時間がかかるみたいだし・・・とちょっと懐疑的になっていたところもあったんですが、ボランティアに行ってみて改めて、義援金って大事、と思いました。


ボランティアはたしかにがれきを撤去したり、家の中を掃除したりできます。それもとても大事なことだけど、本当にここで生活していくためには崩れた壁を直し、床下に乾燥材を入れた上で床板を張りなおし、畳を張り、家具や家電、生活用品を一式そろえ、電柱を立て直して電線などをひく必要があります。それはやっぱり、素人の力だけでは難しい。プロにお願いして、地震津波にも負けない家を、町を作るには、やっぱりお金がいるんです。


そう思ったら、やっぱり寄付もすごく必要で、大事。

送信者 石巻/Ishinomaki, Miyagi on April 16 - 17, 2011

・・・と、すごく大変なように書いてしまいましたが(実際生活されている方はとても大変だと思うのですが)、個人的にはバスで隣の席になった同世代の女の子と仲良くなったりして、とても楽しかったです。仙台の牛タンも地酒もおいしかったー。


まだ余震の心配もありますが、落ち着いたらあらためてゆっくり観光したいなーと思います。海も山も本当に綺麗で、人もやさしくて、とてもとても良いところ。
もう地震津波も来ないで欲しいし、雪なんか降らないで早く暖かくなってほしいと、強く強く思いました。

この10年で失ったもの

なんか先週のエントリがすごいたくさんの方に読んでいただけたようで、ちょっとびっくりしております。コメントいただいた方、ブクマいただいた方含め、お読みいただきありがとうございました。



読み物として書いたのでまぁ自分なりに美しい形にまとめたわけですが、1週間経ったら自分的にかゆーい感じがしてきたので、就職活動してからの10年で得たもの、失ったものも書いてみることにしました。
色々あるよね、ってことで。


■得たもの
・人とのつながり
一番大きいのはやっぱりこれかなーと思います。
入社2年目くらいまでは正直、業界に友達もいないような状態だし、
会社にも近い年齢の人がいないしで不安な日々が続いたんですが、
3年目くらいから仕事で知り合った人とご飯を食べに行くようになったり、
いろんな勉強会で知り合った人とつながりができるようになりました。
最近はTwitterとかFacebookとかで気軽につながれるようになったのでありがたいですね。


・仕事をする上での知識
本を読んだり、ネットで調べたり、講演会とかで人に話を聞いたり、学校に通ったり、自分でアウトプットしたり。
そうやって手探りで少しずつ増やしていったかなと。
まだまだ色々足りないわけですが、1つずつ増えてくことが楽しいなと。


・なんかいろいろな経験
結局会社の立ち上げ、買収(されるほう)、事務所閉鎖と、いろいろ経験が増えました。まぁおいらは物書きなので、ネタが増えるのは大歓迎です。
はっはっはっ(乾)


・お金
ほんと就職活動中はカツカツだったので(お財布の中に58円しかない、とかあった)、社会人になって安定的にお給料をもらえて、好きなものが買えて好きなものが食べられて行きたいところに行けて、という生活が実現できることは本当にありがたいと思います。
「お金がないからやりたいことができない」って、できることなら避けたいから。


■失ったもの
・若さ
私の友人の名言。
「今日より若い1日はない」


・体力
個人的には28歳がピークでした。ほんともう無理がきかない。心臓いたい。


・家族との時間
実家暮らしなんですが、朝5時に起きて7時に会社に行って19時に帰宅して21時に寝る父親と、
朝8〜9時に起きて22〜25時に帰ってくる娘が出会うことはまずありません。
ごめんよパパン。


・婚期
女の幸せって何なんですかね・・・・。




後者に関しては、今後さらに加速度的に失うことが予想されます。
残念。

就職浪人してから10年が経った


本当は2001年3月に卒業するはずだった。


1999年の秋頃から少しずつ就職活動を始めて、
何社くらいエントリーしただろう。
ちょうどインターネットで説明会を予約したり、エントリーシートを提出するのが始まった頃で、説明会なんてすぐ枠が埋まっちゃうからとりあえず興味ないとこでも手当たりしだい受けた。
履歴書はやっぱり手書きだった。


何がしたいのかと聞かれても、それまでは何となく大学院に進むつもりで、
でもとりあえず就職活動もして、
4年生になったら大学院の授業も取れるから聴講してみて、
なんとかく大学院に進んでもできる範囲のことが見えてしまって、
じゃあ就職しかないかな、ってそんな感じ。


何がしたいって聞かれても、
そんな未来のことなんてよくわからないし、
そもそも会社に入ったら何をさせてもらえるのか、どんな仕事があるのか、
それすらもなんだかよく分からないままだった。


多分クリックして応募した企業の数なら200社は超えると思う。
いろんな業界に応募して、その度に断られ続けて、
気がついたら秋になってた。
周りはけっこう就職が決まって、夏過ぎまで一緒に頑張ってた親友も仕事が決まって。


いつのまにか、一人になってた。



そして、決断のときが迫ってた。
このまま卒業するか、留年してもう1年「新卒」として就職活動するか。



どっちが良いのかなんて、判断のしようもなかった。
だって、卒業して就職もしないで「第二新卒」になる人なんて、
身の回りにいなかったから。
どんなふうにしたら仕事につけるのか、想像のしようもなかった。


結局、単位は全部取って、卒論だけ出さずに、留年した。
前期は休学して授業料を抑えて、後期だけ出て、卒論だけ出すことにした。



2001年の春は、そんなふうにして迎えた。
クラスメイトの卒業式の写真には、袴姿やスーツを着た友達の中に1人だけ、鮮やかなブルーのシャツを着た、完全に私服の私が映ってる。
そんなふうにして、私は友達を送り出した。




私は大学にあるカウンセリングセンターに行って、自分の状況を喋ってるうちに号泣してしまって、
カウンセラーの人に「うつ病、というよりうつ状態ですね」と言われて
「そんなもんか」とちょっとがっかりし、
クリスチャンの大学の教授に「限られた椅子を奪い合うから辛くなるんです。誰にでも神様から与えられた使命があるのですから、それを探しなさい」と言われて少し気が楽になり。


2年目の就職活動は小さな会社で事務のアルバイトをしながら、
とりあえず職に就くことを最優先にして、
夏前くらいに中堅どころのIT関連会社から、SEの内定をいただいた。
・・・ほっとしたのもつかの間、自分が一生SEとしてパソコンの前でかりかりプログラミングする姿を想像したら、
なんだかそれだけで肩が凝って苦しいような感じがして、
絶対無理だ、と思って内定を辞退してしまった。
先方には本当に申し訳ないことをしたと思う。


さんざん悩んだ結果、結局自分は本作りに関わりたいんだ、という本音にようやくようやく素直になり、
出版社を受けるもやっぱり内定に至らず、
またも卒業が間近に迫った2002年の1月に新聞に載っていた出版社の求人広告のアルバイトに応募して、
それに何とか拾ってもらうことになり、2月末から働き始めた。


その媒体も2002年の末に廃刊になって職を失い、
そのとき一緒に働いていた人が転職するというので一緒に働かせてもらうことになり、
そこでようやく正社員になった。
できたばかりの、小さな小さな会社。*1


自分が頑張らなかったら、会社がつぶれる。
そう思って走り続けてたら、いつのまにか7年経った。
無事(?)大手の企業に買収されて、とりあえずつぶれる心配もなくなって、
そうしたらちょうど30歳になってた。
だから、ずっとやりたいと思っていた留学をすることにした。


だけど何だかものすごい不景気になって、会社やめて留学して何百万も学費と生活費につぎ込んで日本に戻ってきて、また仕事がすぐ見つかる自信がなかった。
だからオンラインで海外の学校の授業を受けることにした。
ついでにもっと英語が使える環境を求めて転職した。それが2010年の5月。
そしたら2010年末に、その会社が日本撤退して職を失った。外資こわい。



そんなわけでまた転職して、
ニコニコ動画」とかを運営している会社に、2011年2月に入社した。






なんかそんなどうしようもない10年間をつらつらと書いてみたくなったのは、
多分10年前の自分と同じような気持ちの学生の人が、たくさんいるんじゃないかと思ったから。
就職浪人なんかしてどうなるんだろう、って。


未来なんて見えなくて、希望なんて持てなくて、
でも何とかしなくちゃいけなくて。
仕事なんて見つからなくて、
全世界から「あなたなんて要りません」って言われているような気がして、
じゃあここにいる自分は何なのって、


そう思ってた。





無責任なことは言えないけど、
あのとき一番私が、誰かに言ってもらいたかった言葉。



「大丈夫だよ。」



それは、自分を信じるおまじない。




とりあえず、就職浪人しても、
何とかなってる人間がここにいるから。



ただ、
誰にも必要とされなかった、あの頃には戻りたくない。
そんな気持ちが、多分この10年を支えてた。
多分これからも、そうなるんだと思う。
そしてその頑張りがあるから、次のステップに行ける。
そうやって、積み重ねていくもんだと思う。




さて、月曜日からまた頑張りますか。







・・・あ、そういえば私が勤めてる会社、人材募集してるみたいです。
http://info.dwango.co.jp/recruit/index.html





*1:正確には既存の会社を外資の会社が買収して日本法人にしたので、創業間もないわけではない